牧師挨拶

永吉 章 (Akira Nagayoshi)

 

栃木県の南河内町(現在が合併で下野市)に1954年生まれる。

宇都宮大学工学部精密工学科卒、東京基督神学校卒。

日本長老教会甲府北キリスト教会牧師を経て、現在は日本長老教会仏子キリスト教会牧師

家族:妻、息子、娘

 

 

私がはじめて聖書を手にしたのは高校に入学して間もなくの頃だったと思います。国際ギデオン協会という団体が校門で聖書(英和対照の新約聖書)を配布しており、それを頂きました。その時はそれほど興味がなく、本棚の隅に押し込んだままになってしまいました。

次に聖書に触れたのは、同じ高校の時、通学のバスの中で見つけたキリスト教書店で旧約聖書も付いた聖書を買い求めました。何回か読みましたが、一人で読み続けることはとても困難でした。

 

聖書に関心があったのは、今思い返せば自分が変わりたい という願いがあったからではないかと思います。「自分の中にある心の醜さ」が嫌でした。そして人を自分と同じようにしか見れず、愛するとか、感謝するとか、やさしくするとかそういうものが信じられなくなっていました。私はよく高校の同級生から「悟ったような顔をしている」と言わました。その時は「諦め」みたいなものが顔に出ていたのかもしれません。

 

「人は何のために生きるのか」という素朴な疑問を大学に入ってから強く持つようになりました。そしてここで同じサークルの友人がクリスチャンだったことから、国際ナビゲーターの主催する聖書研究会に出席するようになりました。

最初、私はクリスチャンは嫌いではありませんでしたが聖書にはことごとく反発しました。

 

「イエスが私の罪の身代わりに死んだのです。」「まことの神様が天地を造られたのです。そして私たち人間も神様がお造りになられたのです。猿から進化したのではありません。」

 

「そんなバカな!」と私は思いました。「人間は猿から進化したに決まっているじゃないか。何を非科学的なことを言っているのだ!」と思いました。

 

「イエス様は水の上を歩いたのです。」「水をぶどう酒に変えたのです。」「大嵐をおしずめになられたのです。」「病気を治されたのです。」

 

「えぇ、そんなバカな!!」

 

「イエス様は死人をよみがえらせたのです」

  

「おぉ、そんなバカな!!!」

 

「あなたは罪人です。」「あなたの罪をゆるすために十字架において死んで下さったのですよ。」

「誰でもイエス様を信じるなら、救われるのですよ。」

 

「私は罪人じゃない。」と反発しました。

 

常日頃は「自分は罪人だ」、自分の心は醜く、罪深いと思っていました。しかし人から言われると認めたくなかったのです。

 

ある夜のこと、寝ようと目をつぶっていますと、昔のことを思い出してきました。それも罪深いことばかりでした。祖母や母の財布からこっそりお金を盗んだこと、近くの店で万引きしたこと、友達を裏切ったこと、ウソをついて誤魔化したこと、キセルをしたこと、人を批判し、陰で悪口を言ったことなど。

 

私は「ああ、イエス様はこのような私の罪のために死んでくださったのだ。」とそのとき気づかされました。「神様、こんな私の罪をゆるしてください。」と祈ったように思います。そして神様が人を造られたことやイエス様に奇跡と呼ばれるような力があることのほうが自然であることを素直に受け入れることができました。私たちの体験では、太陽が地球の周りを回っているように思えます。しかし真実は、地球が太陽の周りを回っています。自分を中心に聖書を見るのでなく、神様を中心に自分を見、人を見、世の中を見ると聖書の言う方が正しいと思えてきました。

 

そして私は大学4年生の夏に洗礼を受けることができました。友人たちが多く来てくれた事がとても嬉しかったです。

 

今でもそのころに与えられた聖書の言葉は励みです。

 

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(聖書 コリント人への手紙第二 5章17節)

 

新しい私、新しい人生、新しい希望、新しいいのち、新しい喜び、新しい幸せ、新しい感謝、新しい日々、何かもが「新しい」のです。

 

すべての方がイエス様にある素晴らしさを見つけられることをお祈りしています。